いにしえより
恋愛と結婚は別であるのか?
の議論は何度も繰り返されてきました。女性の多くは、恋愛=結婚という固定観念で思考を支配されています。
一方、男性は必ずしも恋愛が必ずしも直ぐに結婚に結びつくような思考回路にはなっていません。この考え方の違いは、恋愛の進行とともに男と女の感情に強い不信感と軋轢をもたらしてきました。特に男女平等や女性の権利が叫びだされてきた今日、更に強まってきた感がします。昔ながらに恋愛と婚姻関係を別に考える浮気性の男性にとって生きづらい世の中になってきたのは否めませをん。
この結婚観の差異はいったどこからやってくるのでしょうか?それはやはり、先述の男と女の恋愛戦略、すなわち生殖戦略の違いから生まれてくるものであると言っていかもしれません。即ち、女性は限りある卵子をできる限り価値を高めて男性とデールし、男性はできる限り手軽に幅広く自らの遺伝子を引き受けさせるという戦略です。
(詳細は下記を参照ください)
結婚とはそもそも何なのか?
女性たちは、結婚を真の愛の終着点として、永遠の愛を誓い社会にその関係を公にするこの世で一番厳粛なる生涯一度の儀式として捉え、幸福と同義語として解釈しています。女性として目指すべきは愛に満たされた結婚であり、これこそ幸福を女性にもたらす神聖で最良の契約として意識から離れることはありません。
これらは女性側の立場による結婚への思いですが、男性側から見ると全く別の形で表現することが出来ます。即ち、女性の生活と安全の保障と引き換えに、望むときにできるセックスの確保であり、自らの遺伝子の継承の委託を意味しています。
つまり、男性にとって結婚とは、女性による自由なセックスと出産・子育・家事作業の提供であり、それに対して多くの代償を払ってサービスの提供を受けることであると言い換えることが出来ます。役務と庇護が男女間で相互交換する義務となります。
これがあらゆる虚飾や願望を取り払った結婚の裸の姿ですが、勿論、そこには男女が愛と慈しみで強く結ばれることは大いに可能であり、頻繁に起こりうる現象です。結婚が人に安らぎと幸福をもたらすことは大いにありますが、結婚が完璧な男女関係の完成形で、男女の愛の最終着地点と思い込むの大いなる悲劇の元となるかもしれません。
古の結婚の形態
現在の形態の男女が一対一の夫婦関係を結ぶことは、農業の開始とともに始まったと推定されます。それまで一夫一妻で男と女が共同で子育てと食料の確保を行っていたことは生存のためには非常に有効に作用したと想像されますが、かなり緩い関係であったと思われます。一種の運命共同体的な関係であったのではないでしょうか。
部族によっては、その形態は一夫多妻であったり、乱交の性慣習が基本で共同で生活し子育てを行っていくというような関係も普通にあったようです。実際、相手を一人に特定しない男女の夫婦関係は、現代でも少数民族やイスラム世界の中で見出すことが出来ます。
一夫一妻の現在の関係は、農業の拡大で人類が社会性を増すとともに、一つの生殖上の戦略として主役となっていき、一夫一妻の制度を採用した集団が繁栄することになり、普及していきました。そのプロセスは以下のように進行したものと推測されています。
凡そ、一万年前に起こった農業の始まりは、社会にあらゆる場面に劇的な変化がもたらしていきます。農業の開始によって土地所有と財産形成の概念が生まれました。それまでの狩猟採取の生活では、食料は自然の恵みの中にあり、特定の人間に属するものではなく、共有の資源でした。しかし、農業は如何に肥沃で広大な土地を所有するどうかは、部族や個人・にとって、大きく運命が変化します。肥沃で広大な土地は必要以上充分な収穫をもたらし、余剰分は資産としてその集団の力となって、部族の繁栄につながります。
そこで生じてくる課題が、囲い込まれた土地と蓄積された財産の相続です。必然的に人間の習性として獲得した土地や蓄積した財産を己の正統な血筋に引き継ぐことを強く希望するでしょう。そこで重要になるのが、嫡子の血筋が正規であるかどうかです。お腹を痛めることのない男性にとって、生まれた子供が己の血筋であるかどうかを明確にすることはかなり困難です。それを保証する一つの手立ては、パートナーを外部から隔離し囲い込むことです。
そして更に土地の所有と財産保有を集団社会に承認させることも重要な事項です。その為、迎えるパートナーの家の社会的な地位も大切になってきます。土地や財産保持に家と家が結びつき、協力し合うことが家と財産を維持するためには有利であり、その必要性があったのです。
このように女性に求められたのは家柄と貞操です。財産の保持と子孫への伝承を確実にするために、結婚という社会的な契約が必要になったのです。富める男性は、婚姻という形態で、パートナーの性的な純潔を確保し妻の実家との一種の安全保障条約を結んでいったのです。結婚に求められた要素は、相手の家柄と純血性・健康であり、恋愛感情は、二次的な事柄であったのです。
本來の結婚は社会的な契約
男性は女性を囲い込み、子供を産ませ、家事・農作業に従事させ、その見返りとして女性の生活と安全を提供します。女性は、自らの貞操まもり、出産・子育を行い、人生の大半を夫とその家に差し出すことによって、身体・命は保全され、やがてその血筋の中核となっていきます。
古の婚姻は、社会的契約と性的な貞操な保証の要素が強かったと考えられます。そこには個人間の愛情要素は余り介在することはなかったと思われます。古き時代の男女の恋愛の事情を反映したものが、ロミオとジュリエットの物語です。結婚は、ごく最近まで家と家の結びつきが主体であったのです。
確かに、男女間の情熱的な恋愛は頻繁に起きていたことも大いにあったはずです。恋愛は生き物たちが最適な生殖相手を選択する上での本能的なプロセスです。多分、農業以前には、より恋愛(セックス)において個人の自由度が高かったと思われます。
人類のセクシュアリテイーには、自由恋愛の乱交性は確実にプログラムされています。姦通や不貞は頻繁に発生し、様々事件を引き起こし、その集団、家族を破壊していったのでしょう。そのために、古今東西の宗教や政権は倫理的にも法的にも厳しく戒めているのです。
女達の地位
農業の開始によって、女性は出産・子育て・労働力として、家という単に取り込まれ、夫に従属していきます。婚姻は家を守り、血を延々と引き継ぐためのシステムとして作用していきます。
この婚姻の基本的な体系は中世まで脈々と保たれていきます。結婚は、家同士が主であり、個人の恋愛感情が能動性を持つことは極稀なことであり、それ故、中世の恋物語は、悲劇的な結末をお決まりとして伝承されていきてます。
一方、性的な欲求の強い男性たちは結婚と恋愛(セックス)を別物として捉えていきます。特に上流社会の中世~近世の男たちは、妻以外の女性を恋愛(セックス)の相手として、熱心に探し求めます。中世の騎士たちの最上の恋の相手は既婚の女性でした。そして商業や産業によってエリート階層が勃興してくるとは彼らは妻以外の愛人つくりに勤しみます。
そこに男性たちに都合よく働いたのが、キリスト教の倫理観です。キルストの教義は、肉欲を求めることを禁じ、不貞を強く否定していきます。キリスト教は女性のオーガズムの狂乱の姿に慄き恐れ、もって生まれた原罪として強く糾弾していきます。女性は貞淑で禁欲的であることが強要されいきますが、それによって男たちにとって、妻は性的には魅力的な存在でなくなっていきます。そこで男たちは喜びを家庭外にもとめ、愛人や娼婦たちとの快楽に勤しみます。
キルスト教の唱える道徳感は男たちにとってはむしろ都合の良いものだったようです。妻には性の喜びを罪深いものと説き、好みの女性と好きなだけ恋愛を楽しめる訳です。妻の存在は、家と生活を守り、子を産み育てるための社会的経済的なパートナーとなっていったのです。
これは西洋社会だけでなく、日本や中国、アジア地域でも、同じように起こった現象です。東洋ではキリスト教のような厳しい戒律はなかったのですが、女性の姦淫は社会的に大きな制裁を受けていきます。特に、お家がすべてであった武士階級においては顕著でした。
結婚と恋愛は別のものとされていた
このように、恋愛と結婚は、長い間、人間社会においては実質的にはまるで違う価値として取り扱われてきました。結婚の主目的は、家と血の存続維持です。恋愛の本質は、本能快楽の充足です。まるで相反する2つの営みを人は長い期間上手く使い分け、繁栄を手にしてきました。本来的には、結婚と恋愛は全く別の次元のものであり、相容れない性格のものなのです。
結婚観の変化
しかし、経済と社会の進展とともに、女性たちが知識と経済力を手にし始めると、この結婚と恋愛に関する考え方の状況は一変していきます。凡そ、第一次世界大戦を経過したころから、それまで婚外恋愛・セックスを謳歌してきた男たちの不貞も激しく糾弾されていきます。人の往来が激しくなり、男女の接触する機会が増加して、不倫のチャンスが増加していった筈でしたが、この真逆の機運が盛り上がります。結婚と情愛は同一であるべきとされ、浮気や買春は倫理的に否定されていきます。
これには企業のマーケテイング戦略も大きく関与し、なおかつキリスト教会も相乗りしていきます。世界は愛がすべてであり、恋愛の終着駅は結婚と幸福であるというような、ドラマ・映画・雑誌・歌などが次から次へと創作され、愛と結婚を賛美していきます。
西洋科学によって起こった多くの企業は、恋愛→結婚→幸福という大義のもとに、あらゆるマーケテイングを展開し、キリスト教はそれに相乗りするかのように、彼らの倫理道徳感を広めていきます。そして、自らの権利の声をあげ始めた女性たちもこれに共鳴し、積極的に行動していきます。そして男性たちはこれまで享楽して生きた男の特権を手放さざるを得なくなっていきます。女性の主張する権利や人として倫理感や道徳感にもはや簡単に抵抗できるものではありませんでした。
愛の神話
長い間、西洋でも東洋でも、特にキリスト社会ではセックスの悦楽は、罪深く不道徳な欲望として扱われてきました。性的な快楽を社会は表面的には否定し、アンダーグランド的な秘め事として押し込めてきました。
そして現代では、その性の享楽は婚姻関係の中にあるべきであり、愛とパッケージであることが求められています。女性たちは結婚によってすべての愛と夢が実現し、幸福も快楽もそこにあるように思いこんでいます。それどころか、結婚式そのものが目的化し、それ以上何らの夢を抱けない女達もすくなくありません。そして男たちも愛と結婚の神話の洗脳を受け続けています。
『ALL NEEDS IS LOVE』
このジョン・レノンの言葉はまるで呪文のように我々に圧し掛かってきます。女たちは、真実の愛の結晶として結婚を定義し、その関係の中に全ての幸福と安らぎがあると信じ込んで止みません。女性たちは結婚という儀式そのものに格段の夢と期待を抱き、やがて多くの女性たちは結婚の実態に気づき失望の壁にぶち当たります。特に、結婚式そのものだけを夢見ていた女達に堅調です。結婚生活の現実と男の実態に結婚の幻想が砕け散ります。これは、婚姻行為が本来持つ二元性を認識しないことによる当然の結果と言うべきものなのかもしれません。
これまで述べてきたように、婚姻と恋愛・セックスは本質的にはまるで違う特性を有し、全く相容れないものです。両者を完全に同一化して、自分の人生を託することで悲劇が生まれます。あくまでも結婚は社会的な方便であり、性愛の欲望・願望実現とは異なるものなのです。
恋愛と結婚は別物として捉える!!
我々の脳には本来、一度選択したパートナー以外とセックスするようにプログラムされています。それは遺伝的な多様性を求める本能であり、形は違えども男性も女性も性的な習性として保持しています。我々は、結婚と性愛は必ずしも同質でないことを知らなくてはならないのです。この2つの特性を意識しながら、男と女の関係を築きあがていくことが大切になります。
勿論、社会関係上の絆と性愛上の絆が同時に構築されることが理想であり、社会的な同士意識と男女の間の深い情愛・慈しみが共存することは大いにありうることで否定するものではありません。
ただ、やみくもに愛がすべての物事に優先し、起こる解決すると信じ込むことは妄想であり、幻覚に近いものがあるのです。思考を切り替えて結婚の持つ二面性を意識することで、悲劇的な結末は少しでも避けることができるかもしれません。